2015年10月30日金曜日

援助の正しい形とは





自分の身の回りが特にそうなのかもしれないが、もの使いが荒いひとが多い気がする。普段ガサツといわれる私が思うんだからかなりだと思う。雑というかおおざっぱというか。コピーが斜めなのは当たり前だし、ホチキスでプリント留めるとき角揃えないし。昨日もアメリカ政府から蚊帳が5000枚ほど市に届き、一時保場所に搬入中に作業員がガラス扉割るし、、。ADEOのオフィスのガラスなのに、特に誰も責めずに大して気に留めるでもなくどう考えてもセキュリティ的に問題有りな枠だけになっちゃった扉にむなしく鍵をかける、、。「俺が一回でも触ったものは全部壊れちゃうんだ。」と大笑いされながら言われたけど、ただでさえ何かを修理したり新しいものを買ったりするのはお金がかかるのに。よって壊れたものは基本放置。無いなら無いで不便なもことも出てくるのになぜ丁寧に使おうとしないのか。あまりにも自分以外が無関心すぎて、自分が気にしすぎなのかと思い始める。

悲しいけど、地元の若者のためにオフィスに購入にしたパソコンが前回のネットワーク改善プロジェクトから3年ともたずにウイルスに感染し大方がダウンしてしまったのがいい例。ものを寄贈するような支援は、受益者が使い勝手をしっかり熟知しているものまたはものを人々に根付かせる指導者や監督役が常にいるとか、受け取る側にかなり明確な目的があるとかでない限り、うまくいかないことの方が多いんだと痛感。オフィスでも町でも「これはどこどこのファンドで立てられた学校」という言葉や、ドナーのサインや寄付の印のステッカーがついたものがいたる所でみられて、人々が支援を受け慣れてることが分かる。
きっとポッと与えられて、自分のものじゃないし自分で稼いだお金で買ったものでもないから、「大切にしよう」という気が起こらないってのがあるような気がする。いろんな国・支援者によって、建物から身の回りの物まで寄付で受け取ったものに多く囲まれてる人たちにとっては「くれるっていうから一応もらっとくけど、壊れたら修理にお金はかけたくないし、失くしたからといって新しいのを自分で買うほどでもない」みたいなものが多い気がする。援助をする側される側どちらにも問題があるけど、ものは大切にすべきだと思ったのでした。


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